
【インタビュー】Interview
UP
いつのまにか更年期の薬も飲み忘れている今。
本当にラクになりました。
プロフィル
- 名 前 :
- M.S.さん
- 年 齢 :
- 51歳
- 現在の職業 :
- 観光関連団体職員
- 趣 味 :
- 洋裁、手芸など手仕事
- メ モ :
- 45歳のときに、洋裁学校の校長として活躍しているときに「適応障害」診断
—Mさんは45歳のときにうつ状態の経験があったとのこと。どんな流れでその状態に陥ってしまったのか、教えていただけますか?
そもそも41歳の時のことなんですが、もともと高校時代から子宮内膜症と腫瘍があって。痛くてつらかったので手術してくれるところを探したんです。ある大学病院がすぐとりましょう、といってくれたのですが、それでも13カ月待ち。手術までの間は、腫瘍を抑える薬を飲んだのですが、ホットフラッシュ、ぼーっとする、夜寝られなくなる、などの更年期症状と同じ症状が出たんです。で、耳にも低音だけ聞こえない症状が出て。今、思えば自律神経の調子が悪かったのかも、とも思います。
—大変だったんですね。
でも、42歳で手術が終わってからは、本当に快調な2年間だったの! 痛みもないし、こんなにラクなんだ!というくらい幸せな2年間。それで、快調だったがゆえに、なんとなく仕事も重なってきちゃったんですよね。
—当時のお仕事はどんな感じだったんですか?
洋裁の講師を、週3日のパートでやっていたんです。でもそのうち、パートながら副課長という立場になっちゃって、教科書の改訂作業なんかをやっていたわけですよ。そうなると、自宅で作業する時間もすごく長くなってくるんです。あと、洋裁を教えるって、自分で着る服とかも作らなくてはいけないんですよ。勤務は3日なんだけど、家でも仕事のことを考えているか、家で洋服作っているか、でした。
—「仕事している感」に燃えていたわけですね。
洋服を作ることは好きだったから、やっていることはハッピーなんです。それなりに期待もされるし、自分も“仕事やっている感”があるし、人から信頼もされるし、信頼されたら自分もうれしい。そんなこんなでやっていたのですが、それがどんどん重くなってきて。
絶対いやだ!と思ったのは、分校の校長になってほしいと言われたこと。次の校長になってと言われていたのを、ずっと逃げていたんです。でも、あるとき、実質トップの人に応接室に連れて行かれて、「ここで校長になるのをうん、って言わない限りはあなたを帰さない」と言われて。これ、今思うとパワハラですよね? でも、結局うなづいちゃったんです。
—週3回のパートが校長に!
やめようかなとも思ったんだけど、洋裁を教えるのをやめたくなかったんです。当時生徒1000人くらい、先生が70人くらいいて、その管理をしなくてはいけなくなった。洋裁を教えるのが好きで入ったのに、違うことに忙殺される状態になってしまった。それでもまあ、最初は頑張ってはいたんですけどね。プツンとキレてしまったのは、頼りにしていた仲間の一人が「急な介護のために退社する、私の分はあなたに任せる」と話してきたとき。ギリギリ耐えていたところに、この人の分も全部私に来るの?って、頭の中がツーンって、何も考えられなくなっちゃった。
—そのあとも激務は続いたんですか?
その少し前から、たぶん、私、おかしかったと思います。相当おかしいのに頑張っていたと思う。前か後か忘れちゃったけど、向山さんがボンと切れてトイレで泣いちゃった、あれと同じことをやっているんですよ。授業が始まる前に準備していたとき、「この学校ってああよね、こうよね」っていう他愛もない、いつもなら流せる話を同僚の先生たちがしていて。それが全部、自分への責め句みたいに聞こえてきたんです。
—わかります。そのゾーンに入ると、本当に責められているように感じてしまうんですよね。
そう、ゾーン! 頭ではわかってはいるの、責めているわけではないことも。でも、逆にわかってほしいの、私だけ苦しいのをわかってほしいの。本校から私あてに電話がかかってくるわ、生徒一人一人のこの材料がどうとか、生徒が少ないとか、各方面から文句を言われるんだけど、私の力ではどうにもならないことだらけですよ。“私のせいじゃないのに!”ということが毎日続いてしまっていました。学校の話は、親しくもない人に言われても平気。でも働く条件が同じ仲間たちに言われてしまうと、なんであなたたち、わかってくれないの?って。
—そして、泣いてしまった?
そのとき、若いスタッフの一人が「いろいろありますよね」と優しくしてくれて、ボワーッと泣いちゃって。このままじゃ授業できない!ってトイレに駆け込みました。30分くらいそこで泣いて、授業が始まる前には何食わぬ顔して戻りましたけど。その時に“私、もうダメだな、自分の中で何か違っちゃっている”と思いました。
—自分はおかしい、と気づいてどうされたんですか?
当時、更年期の治療で婦人科にはかかっていました。でもホルモン剤を飲んで症状が治まっているにもかかわらず、こんなにおかしいってヘンだと思って。それで、心療内科を探したんですよ。心療内科ってどこも混んでいますね。3軒くらい電話して、1年待ちとか半年待ちって言われました。最後の1軒が「1週間後ですけど、大丈夫ですか」って言ったの。”大丈夫じゃないじゃないから電話しているのに”って思ったけれど、とにかく予約を入れました。仕事は忙しい時期でしたが、出られないから頼むねって言って、休みに入りました。一番おかしくなった後2回くらい、なんとか授業はこなしましたけど…。
—休みに入って、どうしたんですか?
とにかく“おとなしいところ”に行こうと思ったんです。
—おとなしいところ?
そう、心が静かに落ち着くところ。私、あまり神様とか信じない方なんです。おこがましいけれど、神って自分の中にいる、と思っているんです。神仏に祈ったり、初詣に行ったりはする。でもしょせんは自分の中にある、と思っていたんです。でも、その時は“自分を守っているものが出て行ってしまった”という気がしました。それで、お正月にいつも行っている成田山にでも行こうと思って。行ったら、不動明王前で、どうしたらいいですか?って言いながら、ダーッと泣いちゃって。あ、今も涙が出てきちゃった。そんな日が1日ありましたね。
—そのあとはどうなりましたか?
成田山に行ったら、一番ひどい状況からは、どうやら脱したんです。そのあと病院に行くまでの一週間はとにかく寝ていました。病院では3、4日分薬が出たのかな。それを飲んでよくなった、というより、気がラクになりました。ただし、薬の作用か、何だか動けるようになっちゃった。お散歩に出たら、つい歩き続けちゃったなんてこともありました。
—1週間休まれて復帰。そのあとお仕事はどうしたんですか?
自分でも60人くらい生徒を持っていましたから。すぐにはやめらない。ただ、復帰した時に「やめるのでどうにか調整してほしい」と、すぐ言いました。半年間授業だけはできたので、それをこなしながら、調整をつけていったんです。
—退職まで半年間かかったのですね。その間は大丈夫だったんですか?
復帰した後も、人から何か言われるのは苦手で。さっきも話に出た若いスタッフと、もう一人、その二人に本当に助けてもらいました。電話に出られない時も「今M先生は気分が悪そうなので伝えておきます」と代わりに出てくれたり、私への意見をさりげなく止めておいてくれたりとか。その二人には本当に助けられて…。若いスタッフは、私の予兆に気づいてくれていました。「先生からのメールに、絵文字がなくなった」って。たしかに、余裕がなくなっているから、以前はメールに絵文字をよく入れていたのに、要件だけになっていたんですよね。
—どうして、自分は蓄積疲労の状態になったと考えていますか?
たぶん、私、容量が小さいんですよ。自分の中に、本当はゆとりがないとダメな人。世の中には、いろいろなことを言われても、それをバネに頑張れる人っていますよね。多分私はそういう人間ではなくて、自分の中に余裕をもってやっていかないと潰れちゃうんです。ただ、校長にと説得された時に、準トップは痛いところをついてきました。「あなたはそうやって生きてきた人間なんだろう。厳しい環境に身を置いて頑張ってみるのも、これからの生き方の一つとしていいのではないか」と言ったんです。その人は逆境から立ち上がって会社を大きくした人。それは嫌だと思いつつも、なんとなくリスペクトしちゃったんですよね。
—難しいですよね。そういう人間ではないと思っても、もしかして自分の破るべき殻かもしれないし。
あの時、お前しかいないだろう、と請われました。そういうところを突っついてくるんですよ。上手いですよねえ、企業のトップクラスにもなると(笑)。
—退職後はどうしていましたか?
半年は再就職のことも考えないと決めて休みました。でも、結局プラプラしているのもイヤで、今の観光関連団体に再就職しました。
—今、どうですか?
今ですか? 今、めちゃくちゃいい!(※と、満面の笑顔)。更年期が明けた感じで、一カ月くらい前から更年期の薬も飲んでいないです。婦人科の先生もそれはもう大丈夫ですね、って言ってくれました。この5年間は不安になることがすごく多かったの。何でもないことがすごく不安になりました。人の言っていることも些細なことが気になるし…。そういうことがなくなりましたね。本当に幸せです!
私は比較的、理論的に考えて、自分の中で考えをまとめてから出すタイプだったのですが、この5年間は思考が全く機能していなかったんですよ。“私、こんなに考えるのが下手な人間ではなかったはず”とずっと思っていました。どうしてこんなに混沌としてしまうのだろう?というのが、この5年間の状況でした。
—今、不調の原因はなんだったと思いますか?
更年期ですね。更年期になって、仕事でいっぱいいっぱいになって、エネルギーが枯渇した。少なくとも、発端は更年期だと思うんです。自分の体はおかしいのに、今までと同じように動けると頭は錯覚している。これもできるはず、あれもできるはずと思っているけど、やっぱり体は悲鳴を上げているから、いろんなことが処理できなくなって、頭も動かない、体も動かない、それにイラだつ自分がいる。で、鬱積がたまってきて、苦手なことからできなくなっていった。
—どんなことが苦手だったんですか。
最初は車の運転ですね。元々苦手だったのが、まず、それが嫌になりできなくなった。あと、一番おかしくなった一週間は、洗濯ものがたためなくなった。それと、苦手な人からの電話も受けられなくなりました。
—今はどうですか?
今はやりたくないことはやらないですね。洗濯物はたたまない(笑)。
—再就職してからは順調でしたか?
再就職してからも、3日間だけパニックになった時がありました。入って半年目くらいかな。新しい環境にウキウキもしていたのですが、仕事や体調のことでいろいろ重なったんです。眠れなくなる、動悸がする、などの症状が出ました。お休みをいただいて、週末も含めて4日間連続で休みました。最初の3日間は寝られなくてひどかったのですが、4日目に20時間寝られたの。目が覚めたら”あれ?!戻った!”って(笑)。あれはおかしな状況でしたね。本当に3日間だけで終わりました。
—今はどんなことに気をつけて過ごしていますか?
首筋の後ろがガーッと血が上るみたいに、熱くなったら、私のサインなんです。婦人科の先生にそれを言ったら、人間は緊張すると、首筋の血流が上がるんだそうです。そこが熱くなってドックンドックンしてきたら、婦人科で処方された、頓服の抗不安剤を飲みます。そうすると30分くらいでスーッと治ります。でも、半年くらい前に飲んだのが最後ですね。
—自分なりのサインがわかって良かったですね。その一方で、自分のサインに、自分で気づくのは難しいと思いませんか?
うつ状態って、わかる人にはわかるんですよね。今思い出すと、うつじゃないかと言われないまでも、生徒からも「先生、大丈夫? 休んでいいよ」と何人も言われたの。その人たちは知っていたんですよね、きっと。でもそう言われても、当時はそれを受け入れる素地がない。誰が一番うつ状態を認識したくないかって、自分なんですよ。誰でも自分だけ弱いとか嫌でしょう? 他の人は平気なのに自分だけとか、そんなことは認めたくない。自分が一番認めたくないから、他人に何を言われようと、気づくのは本当に難しいですよね。
—心身の不調の経験をして一番学んだことは何ですか?
更年期は長かったけれど、うつ状態が出て一番調子がひどかったのは一週間、対応としては半年くらい。その中で、いかに自分がこうなったらやばいとか、今は休まなくてはいけない時期だとか、“サインを見つける”というのが大事だったかなと思います。今、更年期が明けて本当に幸せで、もう20代30代のときみたいに、仕事をバリバリ頑張ろうという気持ちもさらさらない。でも今後、介護とか他の要因が重なるときも来る。その時に、がんばりすぎない、自分の体のサインを見つけて上手に乗り切る。そのためのお勉強期間だったと思います。